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気象と戦争、藤原咲平とは

米国との戦争に突入した真珠湾攻撃の1941年12月8日。現在の気象庁は中央気象台という名称の組織で。そのトップである台長は藤原咲平(ふじわら・さくへい、1884~1950)という男性でした。

藤原は長野県上諏訪町(現在の諏訪市)出身。旧制第一高校、東京帝国大、東京帝国大学院というエリート中のエリートです。旧制第一高校とはいわゆる一高で、芥川龍之介などそうそうたる面々が卒業生として名を連ねます。

ウィキペディアで恐縮ですが、リンクを張っておきます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A7%E5%88%B6)%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7

 

藤原は1909年に中央気象台に入り、47年に退職しました。同じく諏訪町出身でともに中央気象台で働き、直木賞作家としても活躍した新田次郎は甥。新田の次男は『国家の品格』がベストセラーになった数学者の藤原正彦ですので、こちらも親族関係にあります。一高もすごいですが、この一族もすごいです。

 

藤原は41年7月に第4代台長の岡田武松から引き継ぐ形で就任し『測候時報』(第十二巻第八号)に1600字程度の挨拶文を寄せています。長いですが、格調のある文章です。

「商人等より饗応を受けたり、中央官吏が地方で享楽したり、下僚の贈物は公然であったり、甚だしきは贈収賄迄に堕落して居ます。幸い我気象界には此弊害は極めて少ない」と当時の公務員の腐敗を嘆く一方、「此世界の大変換期に当り、時代は新たらしいものを要求しないでは居りません(中略)同僚諸君の新研究の成果を楽しみたいと思います。全国の気象官署も皆現業の完遂と共に新研究に身を入れられん事を希望して止まないのであります」と呼び掛けている。

戦争への言及も目立ちます。「只一途、前台長の作り上げられた此気象界の醇風を守り、此機構を重んじ、三千の同僚諸君の御協力に依りて此国家の非常時に善処したいと思います(中略)誠に時局柄つくづく感ずる事は戦敗国のみじめさであり、戦争にはどうしても敗けてはいけないと思う事です」とした上で「国家本位、伝統尊重、公益優先の趣旨に間違いはありません。今日では自由主義時代での馬鹿が栄え、利口が衰える運命となりました。我気象界などは以前は大馬鹿でありました(中略)岡田スクールの美しい伝統を維持して全同僚諸君の一致協力を得て以て我国未曽有の国難に当り万全を期したいと考えます」。

 

綱紀粛正と国家への忠誠。

戦後、藤原は公職追放されました。真珠湾攻撃時の周辺海域の天気を予報したり、大本営風船爆弾の利用を申し出たりしたためと言われています。

優れた気象学者でありながら、まじめすぎ優秀なあまりに軍国主義に飲み込まれたような気がして残念です。

 

 

yomorinomori.hatenablog.com

 

 

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